戦国武将のお話 その6

2023.01.18

CATEGORY : 歴史 雑記

こんにちは!陸奥守です。

今回ご紹介する武将は、美濃国(岐阜県南部)に生まれ、織田家に仕え、最後は本能寺の変にて討ち死にした

斎藤 利治(さいとう としはる)

という武将です。

美濃で斎藤といえば、早くして下剋上を果たし、「美濃のマムシ」として有名な斎藤利政(道三)が真っ先に思いつきますが、利治はその末子と言われています(真偽は不明)。
ちなみに明智光秀の重臣にも斎藤利三(としぞう)という武将がおり、こちらは利治の義兄だそうです。
これが事実ならめっちゃエリート。

  • 織田家で頭角を現す
    利治は1541年(頃)、斎藤道三の末子として生まれます。通称は新五郎でした。
    しかし1556年、道三が子の義龍(利治の兄)のクーデターによって死亡すると、利治は織田家へ引き取られ、信長の近侍として仕えます
    1565年には織田家が中美濃へ攻め入りますが、その際に堂洞(どうほら)城、関(せき)城を落とす活躍をし、加治田(かじた)城城主となります
  • 信長上洛戦~信忠側近時代まで
    利治は主要な合戦(1568年:観音寺城の戦い、1570年:小谷城攻め、1570年:姉川の戦い、1573年:高屋城攻め、1574年:伊勢長嶋一向一揆攻め、1576年:岩村城の戦い、etc…)に参加し、その度に勇ましく活躍しました。(「比類なき働きあり」などの記録あり
    1576年、信長の嫡男 信忠(のぶただ)が美濃国・尾張国(岐阜県南部~愛知県西部)を譲り受けると、利治は信忠の側近となります
    将来の跡継ぎの側近ですから、信長からの信頼の厚さがうかがえますね。
  • 月岡野(つきおかの)の戦い
    1578年に上杉輝虎(謙信)が死亡し上杉氏の勢いが弱まると、信長は北国侵攻の好機ととらえ、飛騨(岐阜県北部)経由で越中(富山県)侵攻を計画します
    しかし先発部隊の神保長住(じんぼうながずみ)らによる攻略は、上杉氏の名将 河田長親(かわたながちか)らの堅強な防備に苦戦していたため、10月には利治率いる美濃・尾張の部隊が進軍を開始します。
    利治はまず今泉城を攻めますが、案の定城の防御は固く、一旦引き返します。その際河田長親らが追撃に出てきたため、利治は複雑な地形である月岡野まで敵を引き付け、
    同地で逆襲に転じ、3千人以上を補足するという大勝をあげました
    この勝利により利治は信長・信忠から感状を賜り、越中国内の勢力図も織田氏優勢に塗り替えらました。
  • 本能寺の変
    1582年6月1日、利治は信忠とともに中国攻めの秀吉の援軍として京都に停泊していました(信長は本能寺、信忠は妙覚寺、利治は二条新御所)。
    翌日の6月2日、明智光秀の謀反を聞きつけると信忠は直ちに本能寺へ救援に向かおうとしますが、重臣 村井貞勝に二条新御所へ移るよう諭されます。
    二条新御所で信忠と合流した利治は、攻め入る明智軍を再三撃退しますが多勢に無勢、最期を悟った信忠は自刃しました。
    その後もよく猛攻を防いでいた利治でしたが、「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と語り、最後は同じ斎藤一族の斎藤利三に攻められ、ついには討ち死にしました

 

とにかく信長・信忠の信頼は絶大で、美濃という日ノ本の中心地から東西南北に火消し役として駆け付けられる遊撃隊の司令官という立場でした。
一度も領地替えをせず加治田衆との絆は強固に結ばれており、また生涯側室を持たなかったというエピソードなんかもあります。

こういった名将が縁の下を支えていたからこそ、信長やその家臣は各地へ遠征できたのでしょうね。

それではまたの機会に|ω・)ノシ