戦国武将のお話 その7

2023.05.09

CATEGORY : 歴史 雑記

こんにちは!陸奥守です。

今回ご紹介する武将は、浅井家から織田家へと引き抜かれ、秀吉による中国地方攻略戦においては山陰方面の指揮を全面的に任されるほど信頼された

宮部 継潤(みやべ けいじゅん)

という武将です。

  • 浅井家から織田家へ
    近江国浅井郡宮部村(滋賀県北東部)で生まれ、比叡山で修業をしたのち僧侶となりましたが、その後故郷である宮部へ帰り、浅井長政の家臣として仕えるようになります
    ちょうど浅井長政が織田信長を裏切り敵対していた頃だったので、継潤も浅井家家臣として織田軍との戦いに参戦し活躍しました。

    浅井長政の居城は小谷城でしたが、これと向かい合う形で羽柴秀吉が横山城主として対峙していました。
    一方で継潤が在住していた宮部村は、ちょうど小谷城と横山城の中間に位置していたため重要な拠点でした。

    これに目を付けた羽柴秀吉は継潤を調略し、継潤は織田軍へと寝返ることになります。そして継潤は小谷城落城までに多くの武功をあげました。

  • 中国攻めにて
    1577年になると織田信長の命により羽柴秀吉は中国地方攻略を開始し、継潤は秀吉の弟 秀長に付き従う形で但馬国(兵庫県北部)の攻略に大きく貢献します。
    さらに秀長が山陽方面の攻略に出向いているときは、秀長に代わって山陰方面全体の指揮を担いました
    秀吉による過酷な兵糧攻めで有名な鳥取城の戦いでは、敵対する毛利軍の吉川元春と戦い戦線を維持していました。

    1582年に本能寺の変が起こり秀吉が中国地方から畿内へ引き返している間は、山陰方面を全面的に任されていました。このとき山陰の鳥取城は、毛利方に最も襲われる可能性が高い拠点でしたが、その防衛を任されるあたり信頼度の高さがうかがえますね。

    本能寺の変後、鳥取城主となって5万石を拝領しました。

  • 九州攻めにて
    1586年になると秀吉の九州(島津家)攻めが始まります。九州を東沿いに南下する秀長(秀吉の弟)の軍勢に対し、戦力差で圧倒的不利な島津軍は南方まで戦線を縮小し、かつてライバルの大友軍を撃退した実績のある高城にて迎撃する構えを見せます。対して秀長は高城を包囲する一方で、島津軍の後詰が通ると予想される根白坂に砦を建築して備え、両軍しばらく膠着状態が続きました
    しかし肥後方面(九州西部)から秀吉の本隊がやってきているとの情報が入ると、島津軍は戦局打破のため根白坂の砦を強襲します。(根白坂の戦い)

    このとき島津軍3万5千に対し、根白坂の砦を守る兵は守将である継潤らが率いる1万ほどと言われています。
    継潤は秀長軍本隊の藤堂高虎らが救援に駆け付けるまで、再三にわたる島津の猛攻を跳ね除け続けました

    この活躍は秀吉の耳にも入り、「法印(継潤)事は今にはじめぬ巧者ものなり」と称賛されたそうです。

  • 晩年
    小田原征伐(1590年)にも参陣し、その後嫡子 長房に家督を譲っています。
    文禄の役(1592年)では渡海こそしませんでしたが肥前名護屋に在陣していました。
    1593年には因幡銀山を開いて銀山経営を任されました。

全体的に攻めより守りのシーンが多いので地味になりがちですが、要衝を任され、その信頼に答える形でしっかりと仕事をこなす職人のようなイメージでしょうか。
隠居後も秀吉の頼れる相談役として政務に関わっていたそうです。

それではまたの機会に|ω・)ノシ