戦国武将のお話 その8

2023.07.21

CATEGORY : 歴史 雑記

こんにちは!陸奥守です。

今回ご紹介する武将は、徳川四天王の筆頭にして、家康第一の功臣とされている

酒井 忠次(さかい ただつぐ)(1527~1596)

という武将です。
ちなみに徳川四天王の残りの3人は「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」「榊原康政(さかきばら やすまさ)」「井伊直政(いい なおまさ)」です。

  • 生誕
    忠次(幼名:小平次)は1527年、三河額田郡井田城(愛知県岡崎市)に誕生し、元服後は徳川家康(竹千代)の父、松平広忠に仕えます。
    1549年、竹千代が今川氏の駿府へ人質として送られる際にも同行します。
    1556年、居城である福谷城を柴田勝家に攻められた際には、激闘の末に敗走させています。
  • 徳川氏の独立から武田氏による三河侵攻まで
    1560年、織田信長により今川義元が打たれると(桶狭間の戦い)、翌年の1561年には徳川氏が今川氏から独立を果たします。このとき、すでに家老となっています。
    しかし1563年には、不入特権を主張する一向宗徒と、利権を解体し三河統一を目指す家康との方針の違い(諸説あり)から、三河一向一揆という大きな内乱に見舞われます。この内乱では、後に家康の重臣となる本多正信や渡辺守綱といった武将らが家康に背くほどの一大事でした。
    この際、忠次は家康方として参戦し、吉田城攻めにおいては守将を撃退して無血開城を果たす功績をあげます

    一揆の鎮圧後、姉川の戦い(1570年:織田・徳川連合 vs 朝倉・浅井連合)や三方ヶ原の戦い(1573年:徳川氏 vs 武田氏)などの主要な戦いには全て参戦し、いずれも大きな武功をあげています。

  • 長篠(ながしの)の戦い
    1574年、三河侵攻中の武田軍は徳川氏を挟撃すべく西方面から吉田城を攻めますが、守将の忠次は家康の援軍到着まで守り切り、武田軍を撃退します
    これが要因となって武田軍は長篠城へ転進します。世にいう「長篠の戦い」の発端です。

    長篠城を包囲する武田軍と、織田・徳川連合軍がにらみ合う中、忠次は鳶ヶ巣山(とびかすやま)砦の東側からの奇襲を提案・決行し、次々と砦を落城させ戦局を大きく有利にしました。この際、武田氏の勇将 三枝昌貞(さいぐま まささだ)らを討ち取る大功をあげています

    この奇襲により武田軍は退路を失ったため決戦を挑まざるを得なくなり、結果的に鉄砲を主力とした織田・徳川連合に大敗します。

  • 晩年
    本能寺の変後、秀吉と家康が対立するようになると、羽黒の戦い(1584年、小牧・長久手の戦いの前哨戦)では森長可(もり ながよし)を敗走させます。
    1586年には家中で最高位の従四位下 左衛門督に任官され、1588年には嫡男 家次に家督を譲って隠居しました。

 
信康事件(家康の息子が処断させられた事件)もあって色々言われることもありますが、徳川四天王の筆頭と言われるだけあって、晩年まで目覚ましい活躍をしていますね。
ちなみに長篠の戦いで奇襲を提案した際、最初は信長に却下されましたが、軍議後に呼び止められ「敵に作戦をさとられないための方便だった。実際には理にかなった作戦である。」と伝えられ、鉄砲隊500名と金森長近らを手勢につけ加えてもらい、作戦の指揮を任されました。
さらに奇襲を成功させた後、「まるで背中に目がついているようだ」と称賛されたそうです。

信長の粋な計らいについニヤリとしてしまいます。

それではまたの機会に|ω・)ノシ